ア行 |
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名:穴山 梅雪
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生没:1541年?月?日〜1582年6月21日
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出身:---- |
名称:武田信君・穴山信君
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高野山文化財保存会蔵
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武田二十四将の一人。
母は
武田信玄の姉で
妻は信玄の次女であり一門衆の筆頭家臣となる。
もともとは武田姓だが甲斐の巨摩郡穴山を領し、穴山を名乗る。
信玄に重用され、数々の功績をあげるも信玄が病に伏し、
武田信豊とともに
武田勝頼を補佐するように言い残し
死去した。
しかし、武田家を継いだ勝頼の横暴なやりかたに梅雪は批判的で二人は不仲になっていた。
そして
織田信長が武田攻めの一環として
徳川家康に駿河攻めを任せ、
家康は家臣・
長坂信宅に
梅雪調略を命じる。
六日間利害を説かれた梅雪は家康に降伏。
老臣の離反に武田家臣団は動揺し武田は滅ぶことになる。
旧領を安堵された梅雪であったが、家康に同行し、泉州堺を見物中に
本能寺の変が起こる。
必死の脱出を試みるも、宇治田原で土民に殺されてしまう。
一説には家康の策略ともされるが真相は定かではない。
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名:岡田 堅桃斎
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生没:不明
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出身:---- |
名称:-----
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世に知られた歌人。
武田信玄の使者として
上杉謙信のもとへ行った時
謙信は越の長浜という名所へ連れて行きもてなした。
堅桃斎はつれてきた童に投げ輪をさせ遊ばせて有意義の過ごし、帰国した。
実はこの投げ輪によって測量をさせていたのだが
直江兼続に見抜かれていたという。
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カ行 |
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サ行 |
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名:真田 信綱
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生没:1536年?月?日〜1575年6月29日
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出身:信濃 |
名称:真田源太左衛門信綱
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信玄公宝物館蔵
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武田二十四将の一人。
真田幸隆の嫡男。
幼少時に
武田信虎・
諏訪頼重・
村上義清ら連合軍が
祖父・海野棟綱ら一族を攻撃してきたため
父・幸隆とともに上杉憲正の元へ避難した。
その後、
武田信玄が武田の家督を継ぐと
武田家へ加わることになる。
父・幸隆を弟・
真田昌輝とともに支え、
調略に長けた人で多くの武将を武田に引き入れた。
幸隆が隠居し信綱が家督を継ぎ、信玄が
今川氏真を攻めるときには
最前線を任されるほど信頼されていた。
長篠の戦いでは
撤退を主張したが聞き入れられず、
果敢に戦い、首16級をあげるも結局戦は大敗してしまう。
武田勝頼を逃すため
昌輝とともに追撃軍に立ちはだかるが討ち死。
その首は徳川配下・
渡辺政綱があげたとも、
家臣の白川兄弟が隠し持ち、信綱寺に納めたともいわれる。
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名:真田 昌幸
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表裏比興者・謀将・ 希代の横着者
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生没:1547年1月?日〜1611年7月13日
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出身:信濃 |
名称:-----
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願行寺蔵
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真田幸隆の三男。
徳川家康が希代の横着者、
豊臣秀吉が
表裏比興者、つまりは敵か味方格別のつかない油断ならない人物と彼を称している。
そういうのも
真田信綱が
長篠の戦いで
討ち死にすると養子に出ていた昌幸が真田の家名を継ぎ、
天目山の戦いで武田家が滅亡すると
織田信長、
本能寺の変の後
北条氏直、
家康と
わずか六ヶ月半で四度主君を変えているからだ。
さらには家康が昌幸の居城・沼田城を譲れとの命令に拒否し、上田の戦いで争うことになる。
上杉景勝と誼を通じ、
結果は大軍を翻弄した昌幸が大勝した。
また景勝を裏切り、今度は秀吉に属し、彼の命令で家康の配下となる。
秀吉没後、天下は家康に傾きそれに対抗する
石田三成が同心を促してきた。
昌幸は家康につくか三成につくかと息子の
真田信幸・
真田幸村
兄弟を連れ密会をした。
重臣の河原綱家が様子を見に行くと昌幸は「誰も来るなと言っておいただろう!!」と
手にしたもの(下駄といわれる)を投げつけ綱家は前歯を折ったという。
討論の結果、長男・信幸は家康、次男・幸村と自身が三成につくことになる。
どちらが勝っても負けても真田の家名は残るとの判断によるものであった。
関ヶ原の戦いで決戦地へ向かう
徳川秀忠隊
3万8000を上田城に篭もり2000で食い止めた。
結局は三成の西軍が負けてしまい、家康は昌幸の死を命じますが、信幸の助命祈願により
幸村とともに紀州高野山麓の九度山に幽閉され、九年後静かにこの世を去る。
英知に長んだ知略を持っていたが全ては家名を残すために奮闘した生涯であった。
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タ行 |
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名:武田 信玄
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甲斐の虎
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生没:1521年12月1日〜1573年5月13日
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出身:甲斐 |
名称:太郎・武田晴信
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高野山成慶院蔵
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父・武田信虎の
横暴な振る舞いに嫌気がさした家臣団の説得により、
信虎を追放し、武田家の家督を継ぐ。
早くから孫子の兵法を会得した信玄は長く苦しめられてきた村上義清を
苦戦しながらも破るなど、その奇才の片麟を見せていく。
その義清の助け舟となった生涯のライバル・
上杉謙信と
川中島の戦いで
五度の戦に挑むも決着がつかなかった。
信長包囲網を機に
織田信長の
同盟者である
徳川家康に
三ヶ原の戦い
大勝するも
甲府に戻る行軍の途上、病死する。
自分の死後、三年間は死を公表しないこと、と事後を家臣に託しこの世を去った。
また、信玄が家臣団の傀儡政治だったという説、影武者説など話の尽きない武将である。
なおこの画像は信玄本人ではなく、あくまでもイメージとして描かれた。
信玄はもっと痩せていたという。
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ナ行 |
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ハ行 |
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名:馬場 信房
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不死身の鬼美濃
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生没:1514年(1515年?)?月?日〜1575年6月29日
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出身:甲斐 |
名称:教来石・馬場民部少輔・馬場美濃守・馬場信春・馬場信政・馬場氏勝・馬場信武
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恵林寺蔵
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武田四名臣、
武田二十四将の一人。
長篠の戦い
で戦死するまで、生涯七十の戦に参戦するも
かすり傷ひとつ負わなかったことから「不死身」と呼ばれた。
実名は不明である。
もとは武川衆の一員で教来石を名乗っていたが馬場の名跡を継ぎ馬場を名乗る。
常に冷静沈着、智勇兼備で築城術にも長けた将で
武田信虎
武田信玄
武田勝頼の三代を
を支えていった。
信玄が駿河の
今川氏真を攻め、
屋敷に火を放ち、宝物を奪い取ろうとしたとき
「滅びゆく敵の宝物を奪うことは恥知らずの武将のすることだ」と信玄を諭したという。
信玄は彼の力を認めており、一国の太守になれる器量人と称している。
また原虎胤にあやかり
美濃守を名乗らせたという。
四名君の名にふさわしい数々の業績を成すが、
長篠の戦いで自軍の不利を進言するも勝頼に聞き入れられず、果敢に戦い散って行った。
信長公記では「手前の働き比類なし」と絶賛された武将。
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マ行 |
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ヤ行 |
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名:山本 勘助
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生没:1493年?月?日〜1561年10月18日
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出身:三河?駿河? |
名称:-----
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恵林寺蔵
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武田二十四将の一人で
武田信玄の軍師。
若い頃は諸国を放浪し戦略や築城術を磨いた。
子男で左目・片足が不自由で容姿が醜く体に八十六ヶ所もの傷がある。
その風貌の悪さから今川義元
が召抱えなかったとされる。
その後、
板垣信方がその非凡さを見抜き、
信玄に推挙したところ、300貫文を与え足軽大将として召抱える。この時勘助50歳。
軍略に長け、築城術・城攻めに精通し、高遠城、小諸城、海津城なども築城指揮したという。
また
馬場信房に築城術を指南させたという。
川中島の戦いでは
啄木鳥戦法を提案するもこれを見破られ、憤死した。
資料の少なさから実在する人物とされるものの、信玄の軍師であったかは疑問が残る。
余談ではあるがあてずっぽにものを言う事を「山勘」というがこれは山本勘助というのは俗説で
鉱山や鉱脈を探し当てる人の勘のことである。
川柳も百句近く残っており、江戸庶民に親しまれたという。
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