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大永元年(1521年)11月3日〜天正二年(1573年)4月12日 |
実父を追放してまで手に入れた家督。
信玄の名は全国に響き渡り、信長ですら戦うことを頑なに敬遠していた。 戦国最強の武田騎馬軍を率い、甲斐の雄としてその力を誇っていた信玄の生涯の好敵手となったのが上杉謙信。 信玄の前に幾度となく現われ阻まれ、ついには上洛の夢も露と消えた。 |
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0歳
大永元年(1521年) 11月3日 |
武田信虎と
大井夫人の間に生まれる。幼名を太郎。
甲斐府中石水寺という山の麓に建てられた草庵が出生場所とされている。 いかつい容貌でいつでも泣くことはなく、気に入らないことがあると大声で泣く赤ん坊であった。 |
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13歳
天文二年(1533年) |
扇ヶ谷上杉家・上杉朝興の娘と結婚。 | |
14歳
天文三年(1534年) |
妻・上杉朝興の娘が難産のため母子ともども死去。 | |
16歳
天文五年(1536年) |
今川義元
の斡旋により元服し武田晴信と名乗る。
信は武田家の通字、晴は将軍・足利義晴からもらった。 |
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同年11月 |
海の口城攻めで初陣。
父・信虎が落とせなかった海の口城をわずか300の兵で落とし、城主・平賀成頼の首を挙げたといわれるが あまりにも華々しい初陣であるがゆえに真偽のほどは定かではないとされる。 |
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17歳
天文六年(1537年) |
左大臣三条公頼の娘・三条夫人と結婚。 | |
33歳
天文二十一年(1553年) |
第一次・川中島の戦い。 | |
35歳
弘治元年(1555年) |
第二次・川中島の戦い。 | |
37歳
弘治三年(1557年) |
第三次・川中島の戦い。 | |
39歳
永禄元年(1559年) |
信濃守護となり出家して法性院信玄となる。 | |
41歳
永禄三年(1561年) |
川中島の戦い最大の激戦となった 八幡原の戦いが起こる。 | |
43歳
永禄七年(1564年) |
第五次・川中島の戦い。 | |
52歳
元亀三年(1572年) |
三方ヶ原の戦い。 | |
53歳
天正二年(1573年) 4月12日 |
2月に家康方の野田城攻略中に持病が悪化。
野田城攻略し病状回復の為、長篠城、鳳来寺に移ったが思わしくなく、 いったん甲斐に戻る途上、4月12日、駒場にて病死した。 死因には野田城攻略中に受けた鉄砲傷が原因になったという説もある。 |
★水洗便所を作った? |
信玄は躑躅ヶ崎館に水洗トイレを作ったという。名前は"山"。
家臣がなぜ厠を山と言うのでしょうかと聞くと信玄は、 「山には常に臭き(草木)が絶えぬから」と答えたという。信玄はユーモアのセンスもあったようだ。 |
徳川家康家系図 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
父 | 武田信虎 | 母 | 大井夫人 | 兄弟 | 男子7名・女子8名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正室 |
上杉朝興の娘
三条夫人 |
側室 |
諏訪御料人 禰津夫人 油川夫人など多数 |
実子 | 男子5名・女子5名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
養子 | なし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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