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			名:上杉 謙信
		
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		越後の龍・軍神・聖将
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		生没:1530年2月18日〜1578年4月19日
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		出身:越後
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		名称:虎千代・長尾喜平次景虎・上杉政虎・上杉輝虎
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			上杉神社蔵
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		長尾為景の子。
		義侠心の強い武将で戦国時代では珍しく義に生きた武将。
		 
		毘沙門天を信仰し、生涯妻を娶ることがなかったという。
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			名:直江 兼続
		
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		生没:1560年?月?日〜1620年1月23日
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		出身:越後上田
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		名称:与六兼続・直江山城守兼続
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			米沢市立上杉博物館蔵
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		容姿端麗、文武に通じ、その知略は並ぶものがいないとされる。
		 
		上杉景勝の家臣で
		景勝も多大に彼を頼った。
		 
		若き日、
		上杉謙信に認められ、
		樋口兼豊の養子とし
		与六兼続と名乗らせた。
		 
		謙信の姉・仙桃院の命により
		景勝の近習となる。
		 
		謙信が死去したのち、御館の乱で景勝が上杉の家督を継ぎ彼を支える重鎮となり
		 
		お船の方と縁組し直江家を継ぐ。
		 
		春日山城で兼続は内政、外政全てをほとんど一人で行ったという多才ぶりを発揮。
		 
		豊臣秀吉・
		徳川家康・
		福島正則などあらゆる武将が
		彼の力を認めていたという。
		 
		その後、越後から会津へと移封された景勝は国内を安定させるため内政に励むが、
		 
		上杉を叩いておきたい家康がそれを謀反の動きとし、上洛を促してきた。
		 
		兼続は家康に直江状と呼ばれる強気の釈明書を送り上杉家は家康に敵対することになる。
		 
		関ヶ原の戦いで西軍が負けたことで
		上杉家に責任が及ぶのを恐れ、
		 
		全ての責任を一身でになう。
		 
		極端に寡黙な人であったらしく、政治面では非情な部分もあった。
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