生涯のライバル竜虎の激突

川中島かわなかじまの戦い
第一回:布施の戦い    天文22年(1553年)4月22日
第二回:犀川の戦い    弘治元年(1555年)10月15日
第三回:上野原の戦い   弘治3年(1557年)?月?日
第四回:八幡原の戦い   永禄4年(1561年)9月10日
第五回:塩崎の対陣    永禄7年(1564年)10月1日

武田信玄軍 VS 上杉謙信軍
約2万0000人 約1万3000人
武田信玄本隊
総大将 武田信玄 41歳 約8000人
軍師 山本勘助 68歳
武田信繁 37歳
武田義信 23歳
穴山信君 20歳
飯富昌景 ?歳
内藤昌豊 39歳
諸角昌清 ?歳
原昌胤 64歳
妻女山奇襲隊
高坂昌信 34歳 約1万2000人
馬場信春 47歳
飯富虎昌 57歳
小山田信茂 22歳
真田幸隆 48歳
上杉謙信本隊
総大将 上杉謙信 32歳 1万3000人
長尾藤景 ?歳
直江実綱 52歳
柿崎景家 48歳
北条長国 ?歳
甘粕近江 ?歳
本庄繁長 21歳
色部長実 ?歳
新発田長敦 23歳
荒川伊豆守 ?歳
信濃衆
村上義清 60歳
高梨政頼 53歳

    前置き
川中島の戦いは甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が争った戦い。
戦場となった川中島で五度、12年間に渡って争われた。
その最大の激戦となった四度目の戦いが川中島の戦いとしてよく取り上げられる。
    第一回:布施の戦い
信玄との争いに敗れた村上義清が北信濃奪回をと越後の上杉謙信に救援を要請した。
1553年4月22日、上杉謙信はこれに応じ、村上方の塩田城を攻める武田軍の前に姿を現した。
同年8月、一万の信玄軍が塩田城を落し、八千の上杉軍と八幡原で戦う。
謙信軍の強さを知った信玄は大きく戦おうとせず、これは小競り合い程度で終わり、9月20日に謙信は軍を引き返す。
    第二回:犀川の戦い
1554年、武田・今川・北条の三国同盟が結ばれ、後顧の憂いを絶った信玄は北へと矛先を向ける。
1555年、両軍は犀川を挟み対峙するもこれも7月19日に小競り合いをしただけで膠着が続いていた。
同年10月15日、信玄が今川義元に調停を頼み、和を結んで200日を越すこの戦いが終結した。
    第三回:上野原の戦い
信玄が内部崩壊をねらい、上杉家臣の大熊政秀を武田に寝返らせる。
1557年、このことに激怒した謙信が上野原で合戦をした。
この戦いも小競り合い程度に終わっている。
    第四回:八幡原の戦い
    決着の覚悟
川中島の戦いでもっとも激しい戦いとなった。
1561年、信玄は海津城を建て高坂昌信を城主に精鋭を置いた。
謙信にとっては関東進出の脅威となる。
このため、1561年8月14日、春日山城を立ち、善光寺付近に五千の兵を残し、
16日、決戦のため一万三千の大軍をそろえ妻女山に布陣した。
対し、信玄は8月18日、二万の軍勢を引きつれ甲府を発ち、茶臼山を経て、29日、海津城へ入城。
両軍が陣を入れ替えての対陣、決戦を前に静かな沈黙が10日間続く。
戦局の流れ
    打開の一策・啄木鳥戦法
信玄が動き出す。
軍議を開き、山本勘助が提案したといわれる啄木鳥の作戦に出たのだった。
キツツキは木に穴を開け、
反対側から幹を突くことにより獲物を追い出し捕食する習性を持っていた。
これから名前をとり、信玄は軍を二隊に分け、一方が敵を追い出し、
逃げてきたところを待ち構えた本隊が挟み撃ちにしようと思ったのだ。
9月9日深夜、
霧が霞むと馬場信春、高坂昌信ら精鋭一万二千は妻女山へ夜襲に向かい、
本隊信玄率いる八千は川中島で敵を待つ。
しかし、謙信はこれを読んでいた。
海津城からしきりに飯を作る煙が立つのをみて、決戦が近いことを知る。
後世の創作では上杉方の軍師・ 宇佐美定行が 見破ったという。
ひそかに妻女山を下り、10日午前5時、八幡原へと布陣する。
頼山陽の漢詩の一節、「鞭声粛々夜河ヲ渡ル」の場面であった。
    両雄一騎打ち
10日午前6時、謙信は車懸かりの陣で奇襲をする。
突然の奇襲に驚いた信玄だったが、鶴翼の陣で対抗。激しい戦いとなる。
不意を突かれた信玄軍は武田信繁・諸角昌清・山本勘助らが相次いで戦死。
武田軍は断然劣勢だった。
謙信は自ら床机に座る信玄に襲いかかり、
三太刀斬りつけたが信玄はなんとか軍扇団扇で防いだ。
その軍配には七つの傷跡が残ったという。
なおこの話は作り話とされ、また影武者同士の戦いではないかという説もある。
    武田軍の反撃、そして終戦
八幡原では信玄軍は不利であったが妻女山に謙信軍が不在と知った奇襲隊は
急いで10日午前12時頃、八幡原へと加わる。
予期せず奇襲の形となったことで信玄軍は形勢逆転。
謙信は善光寺へと引き返す。
ここで八幡原の戦いは終わりを告げる。
上杉軍の死者三千四百七十余人、負傷者九千四百余人。
武田軍の死者四千六百三十余人、負傷者七千五百余人。
勝敗は諸説あるが引き分けと見るのが定説である。
豊臣秀吉の見解では「前半戦は上杉、後半戦は武田」としている。
    第五回:塩崎の対陣
1564年、信玄の命により山県昌景が飛騨に侵略。
これに対し謙信は8月10日、川中島に出陣。信玄も応じ対峙する。
67日間対峙したが、関東の形勢が気になる謙信と北信濃をほぼ掌握して戦う理由がない信玄だったので、
戦いもせず10月1日、謙信は帰国する。
    その後
覇を争った二人であったが、この五回の戦いで大きく時間をとったことにもなった。
双方はお互いを認め合い、謙信は信玄の死後、「惜しい人物を亡くした。人の落ち目につけ込むのは本意ではない。」と 甲斐を攻め込まなかった。


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