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			名:石川 数正
		
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		生没:1533年?月?日〜1593年?月?日
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		出身:----
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		名称:-----
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		徳川家康の竹馬の友。
		 
		家康が今川の人質時代から付き添うなど家康にとってはなくてはならない股肱の臣であり親友でもある。
		 
		軍事・内政、とくに外交に富んでいて徳川家独立・発展に力を見せた。
		 
		徳川家は元々今川家の配下にあったが、
		桶狭間の戦いを期に織田家に肩を持つ。
		 
		この裏切り行為に今川氏真は
		人質であった家康の長男・竹千代(
		松平信康)を殺そうとした。
		 
		数正は今川の支城を攻め今川一族の子を人質に取り、捕虜交換によってその命を助けた。
		 
		また武田滅亡後、甲斐・信濃・上野など旧武田領を制圧したが
		 、
		本能寺の変後、その領民は一揆を起こす。支配したとはいえなかったのだった。
		 
		そこへ数正は領地安定のため旧武田領内の名家を優遇する政策を出す。
		 
		この作戦は見事成功し、一揆は終わりを告げた。
		 
		的確な判断と行動を出す彼を家康は前面的に信用していたが突然
		豊臣秀吉に寝返る。
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| カ行 | 
	
	
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			名:梶 左馬助
		
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		生没:不明
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		出身:----
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		名称:-----
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		徳川家康の祐筆。
		 
		関ヶ原の戦いの前に
		「9月15日巳の刻(午後4時)御勝利」と記した。
		 
		家康はその理由を尋ねると
		 
		「敵は大軍なので時刻を過ぎても合戦が続いていればお味方の負けでしょう」と答えたという。
		 
		後に400石から1000石の御使番に取り立てられたという。
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			名:亀姫
		
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		生没:1560年6月27日〜1625年7月1日
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		出身:----
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		名称:-----
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		徳川家康の娘。
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			名:徳川 家康
		
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		狸親父
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		生没:1543年1月31日〜1616年6月1日
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		出身:三河
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		名称:竹千代・松平次郎三郎元信・松平蔵人元康・松平蔵人家康
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			徳川家康美術館蔵
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		豊臣五大老の一人。
		江戸幕府第一代将軍。
		 
		幼い頃から織田・今川家の人質として暮らしていた。
		 
		辛酸を舐めたその生活も
		今川義元が
		織田信長に敗れた
		桶狭間の戦いを機に独立。
		 
		この長い人質生活が家康の忍耐強さ、そして今川家の名参謀・
		雪斎の師事により
		 
		その大器の基盤を作った。
		 
		すぐさま信長との同盟を結ぶこととなるも、
		 
		愛子・松平信康が
		謀反の罪を着せられて涙を呑んで切腹させるなど
		 
		同盟というよりは臣下に近い扱いをさせられても、この関係は信長が死ぬまで続けられる。
		 
		右の画像は家康が
		三方ヶ原の戦いで大敗した際に、
		恐怖のあまり脱糞したときの
		 
		失敗を忘れないために絵師に描かせたという自分の失敗談を残した珍しい武将。
		 
		そして天下分け目の
		関ヶ原の戦い、
		大阪城の戦いを経て
		天下を取ることができたのだった。
		 
		忍耐の人であり、武芸にも秀で、健康的であった。
		 
		また医者嫌いの薬好き、家来思いの武将でもあった。
		 
		あるとき
		豊臣秀吉が
		自分の茶器や宝物を自慢し、家康にどのような名器を持っているかと尋ねた。
		 
		家康は「名物茶器は持っていない。ただ命知らずの家来が宝」と言い、秀吉を赤面させたという。
		 
		晩年は天下を獲って安心したのか、草履が一人で結べないほど狸腹だったという。
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			名:徳姫
		
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		生没:1559年11月11日〜1636年2月16日
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		出身:----
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		名称:五徳
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		松平信康の正室。
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			名:鳥居 強右衛門
		
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		生没:1540年?月?日〜1575年?月?日
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		出身:三河
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		名称:-----
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			東京大学資料編集所蔵
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		奥平貞昌の家臣。
		 
		貞昌率いる500の兵で守る長篠城が
		武田勝頼が
		1万5000人で攻めてきた。
		 
		長篠の戦いの前哨戦ともいえる
		長篠城包囲で城内の兵の気力もなくなりかけた時、
		 
		徳川家康へと
		援軍要請に単身でた。
		 
		泳ぎ達者な彼は城を抜け出し、家康のいる岡崎へといくと既に戦準備をしていて、
		 
		それを報告に長篠に戻る途中、武田方に捕らえられる。
		 
		勝頼は長篠を落とすため、援軍はこないと強右衛門に嘘の報告をするように強制するとそれを承諾。
		 
		翌朝、強右衛門が城の前に出されると彼は
		 
		「徳川・織田の援軍がすぐくる。もう少し耐えろ」と言い、武田軍に磔にされ殺されてしまう。
		 
		援軍到着の僅か2日前のことであった。
		 
		戦場で華々しい活躍をしたわけではない彼だが、
		 
		三河武士を象徴するように死を恐れない主に忠実な強情さは後世にも名を残す働きとなった。
		 
		絵は家康の家臣・落合道久の旗指物に描かれた強右衛門磔の図。
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			名:鳥居 元忠
		
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		生没:1539年?月?日〜1600年9月8日
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		出身:三河
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		名称:-----
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		三方ヶ原の戦いで脚に弾が当たり不自由になったという。
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| ナ行 | 
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| ハ行 | 
	
	
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			名:服部 半蔵
		
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		鬼の半蔵
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		生没:1542年?月?日〜1596年12月23日
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		出身:三河
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		名称:服部正成
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		半蔵は服部家に代々受け継がれる名前。
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			名:堀尾 吉晴
		
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		仏の茂助
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		生没:1544年?月?日〜1611年7月26日
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		出身:----
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		名称:-----
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		豊臣三老中の一人。
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| マ行 | 
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| ヤ行 | 
| ラ行 | 
| ワ行 | 
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