ア行 |
|
|
|
|
|
|
|
|
名:石田 三成
|
-----
|
生没:1560年?月?日〜1600年11月6日
|
出身:近江石田
|
名称:佐吉・オーガスチン
|
 |
龍潭寺蔵
|
|
石田正継の次男。
正義感・義侠心が強く潔癖・完璧主義者だったとされる。
事務能力が高く豊臣秀吉が
自らの死後は天下を獲るだろうと言ったという話がのこっている。
その反面人望がなく、戦略面ではからきしとの評価も多い。
15歳の時、秀吉が立ち寄った寺の小姓をしていた三成は熱い茶、冷たい茶、ほどよい茶の
三杯の茶を出し、その気配りに感心した秀吉が近習として仕えさせる。
その知恵をふんだんに使い、秀吉が天下を獲るとかれの右腕となり働きをみせる。
秀吉没後、
徳川家康、
加藤清正ら武断派と対立してしまい、
関ヶ原の戦いで争うことになる。
しかし、裏切りが続き大敗した三成は伊吹山の洞窟に隠れていたところを
田中吉政配下に見つかり捕らえられてしまう。
処刑の前、出された干し柿を「自分は痰持ちだ。干し柿は痰の毒だ」と断っている。
三成は最後の最後まであきらめず豊臣再興をめざしていたのだろうと思われる。
敗軍の将として
小西行長
安国寺恵瓊とともに
市中引き回しのうえ、六条河原で処刑された。
なお日本で始めて復顔が行われた人で、それによると華奢で背が低く、反っ歯であったという。
|
|
|
|
名:大谷 吉継
|
-----
|
生没:1559年(1565年?)?月?日〜1600年10月21日
|
出身:近江?
|
名称:大谷形部、大谷吉隆
|
 |
石田多加幸氏蔵
|
|
豊臣秀吉に
百万の大軍を預けてみたいと言わしめた智将であるが、
癩のため失明したといわれる盲目で、顔が崩れ手足が不自由だった。
大谷盛治の子とも
大谷吉房の子と伝えられる。
石田三成とほぼ同時期に秀吉に仕え
賤ヶ岳の戦いで
賤ヶ岳七本槍に匹敵する
働きを見せ、活躍していく。
ひどい皮膚病をコンプレックスにもっていた吉継だが、
ある茶会の席で茶の回し飲みの際、吉継の飲んだ後の茶は誰もが敬遠していた中、
三成だけが全て飲み干したことで彼に心を開くことになる。
三成の徳川家康討伐に反対するも
不利とわかっている三成に加担。
関ヶ原の戦いでは
織田信長に攻められ自刃した
三好義継と読みが同じで縁起が悪いと
大谷吉隆と改名している。
小早川秀秋隊の裏切りを予測し、
それに備えた布陣をするも
裏切りが裏切りを呼び、最後は自刃する。
そのとき、既に症状が重くなり、目も見えず自分の足で立つこともできなかったという。
|
|
|
|
|
|
|
カ行 |
|
|
|
|
|
|
|
名:木下 弥右衛門
|
-----
|
生没:?〜1543年2月5日
|
出身:尾張中村
|
名称:弥右衛門
|
豊臣秀吉の実父。
正しくは弥右衛門。木下姓は秀吉が後からつけたとされる。
織田信秀の足軽として仕え
戦場で足を怪我してから、農民となった。もしくは半農半兵であった。
秀吉が幼い頃、足の怪我が下で他界しているが、
妻・なかの後夫である
竹阿弥と同一人物で
あったとする説もある。
|
|
|
|
|
|
|
名:黒田 官兵衛
|
両兵衛
|
生没:1546年12月22日〜1604年4月19日
|
出身:播磨
|
名称:万吉・勘解由・黒田孝高・黒田考隆・黒田如水・シメオン
|
 |
崇福寺蔵
|
|
小寺職隆の子。
織田信長の中国平定後、
豊臣秀吉に仕え、
竹中半兵衛と共に
両兵衛と呼ばれる。
高山右近に勧誘され、
キリシタンとなっている。
信長に背いた
荒木村重の説得に向かったとき、
逆に捕らえられ一年間幽閉された。
そのせいで脚を悪くしてしまいカサ頭になったという。
本能寺の変
では、信長自害の知らせを聞きうなだれる秀吉に天下が取れると説き、
中国大返しを進言するなど秀吉天下取りの王手を決めた。
秀吉は官兵衛を頼りにする一方、その並々ならぬ知略に恐れを持っていた。
秀吉が「自分の死後、天下を獲るのは官兵衛だろう」といったのを知った官兵衛は
隠居し、如水と名乗る。
実際、
関ヶ原の戦い
が始まると官兵衛は決着まで100日かかると判断し、
その間、九州を平定し天下を狙おうとしたが、
結局はこの戦いは一日で終結する。
息子・黒田長政の
活躍もあってのことだった。
長政が関ヶ原の戦いの勝者・
徳川家康に
手をとって誉められたと報告したときも、
「お前の左手は何をしていた」(なぜその左手で家康を刺さなかったのか!!)と叱ったという。
|
|
|
|
|
|
|
|
名:後藤 又兵衛
|
槍の又兵衛
|
生没:1560年5月5日〜1615年6月2日
|
出身:-----
|
名称:後藤基次
|
 |
福岡市博物館蔵
|
|
黒田八虎の一人で
大坂城七将星の一人。
幼少より父を失い、
黒田官兵衛に養育される。
しかし、官兵衛が
荒木村重に幽閉されると、
伯父が黒田家に背いたため、
仙石秀久に仕える。
その後、黒田長政が
その力量を惜しみ帰参を許したため長政に仕える。
朝鮮出兵や、
関ヶ原の戦いで
大橋掃部を
討ち獲るなど数々の功績を残すも、
敵方と内通しているとの噂などで長政と確執ができ、出奔してしまう。
長政の妨害により他家へ仕えることもできず、長い浪人生活を送るも、
広く浪人を募集していた豊臣家に仕える。
大阪の陣で多勢に無勢にもかかわらず、
果敢に戦い、活躍した。
苦しませた伊達政宗の
鉄砲の集中攻撃に合い、
重手を負い、介錯人の近習・金方平右衛門に自らの首を田に埋めるように言い残し自害。
朝鮮出兵時の虎を殺しなど勇猛果敢で強気に豪気な人であった。
|
|
サ行 |
名:真田 幸村
|
日本一の兵
|
生没:1567年?月?日〜1615年6月3日
|
出身:甲斐 |
名称:弁丸・源二郎・真田信繁
|
 |
真田博明氏蔵
|
|
真田昌幸の次男で本名は真田信繁。
これは武田信繁からつけられた。
普段は温和、穏やかな顔で額に小さな傷跡があったという。
|
|
名:島 左近
|
鬼左近・筒井の右近左近
|
生没:?〜1600年10月21日(?)
|
出身:大和 |
名称:島左近清興
|
松倉右近とともに
筒井の右近左近と呼ばれる。
「三成に 過ぎたるものが二つ有り 島の左近に 佐和山の城」
と詠われた勇将。
幼少より兵法に通じ、
25歳の時、父備前守など一族九人を殺し家督を手にした島の庄屋なる人が左近といわれている。
筒井順慶に仕えていたが
それを継いだ筒井定次との確執により出奔し牢人となる。
蒲生氏郷、
豊臣秀長に仕えるが
いずれも長くはとどまらなかった。
そこへ石田三成が
自らの知行・四万石の約半分、一万五千石を与えるという破格の待遇に左近は彼に仕えることになる。
豊臣秀吉の死後、
三成と
徳川家康が天下を二分すると、
三成に家康暗殺計画を持ちかける。
始めは三成も卑怯な手だと反対したが、度々の説得に折れることになる。
上杉討伐に向かう家康が泊まるとされる近江国石部宿に兵800を送り夜襲をかける手筈であったが
事前にばれこの計画は失敗してしまう。
関ヶ原の戦いの緒戦となった
杭瀬川の戦いでは奇襲戦にもちこみ勝利を呼び込むも、
決戦では3、40の兵を引き連れ
黒田長政隊に突進する。
死兵と化した左近軍に長政隊は押されるも鉄砲隊により負傷させた。
その後、討ち死したとも落ち延びたともいわれるがこの奮戦は左近の名を大いに高めるものとなった。
なお戦国時代の有名人にもかかわらず肖像画は見つかっていない。
頭は禿げ、顔がいかつく、身体はがっちりしていたという。
|
|
|
|
タ行 |
名:高山 右近
|
-----
|
生没:1552年?月?日〜1615年2月4日
|
出身:-----
|
名称:高山重友・ジュスト
|
潔癖症で、熱心なキリシタンとして有名。
利休七哲の一人。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
名:豊臣 秀吉
|
猿・はげ鼠
|
生没:1537年3月26日〜1598年9月18日
|
出身:尾張
|
名称:日吉丸・木下籐吉郎・木下籐吉郎秀吉・羽柴籐吉郎秀吉・羽柴筑前守秀吉・藤原秀吉
|
 |
高台寺蔵
|
|
百姓の弥右衛門・
なかの長男。
放浪生活の末、今川家家臣・
松下之綱に仕える。
しかし同僚と橇が合わず、
織田信長に仕える。
はじめは木下藤吉郎と名乗り、その風貌からハゲ鼠というあだ名がついた。
人に好かれやすく能弁で人たらしな秀吉はみるみるうちに織田信長の下で出世していく。
「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」でわかるように確かな力を持っていた。
そして、
本能寺の変
により信長が死ぬと毛利氏と争っていた秀吉は
誰よりも先に京都に軍を返し(中国大返し)、山崎の戦いで光秀を破る。
これが大きなきっかけとなり天下を統一することもできた彼は戦国一の出世頭と称される。
孝行息子とも知られれ、英雄色を好むとばかりに女好きで派手好き。
また彼の右手には一本指が多いという説もある。
太閤検地や刀狩などの政策をとる。
晩年は不可解な行動をとることも多く朝鮮出兵もその失敗のひとつ。
|
|
|
ナ行 |
名:ねね
|
-----
|
生没:?〜1624年10月17日
|
出身:尾張
|
名称:おね(?)、高台院、北政所
|
浅野長勝の養女。
後に豊臣秀吉の正室となる。
|
|
ハ行 |
|
|
|
|
|
|
|
マ行 |
|
|
|
|
|
ヤ行 |
名:山内 一豊
|
-----
|
生没:1546年(?)?月?日〜1605年11月1日
|
出身:-----
|
名称:猪右衛門
|
賢妻を持つことで有名。
|
|
|
|
ラ行 |
ワ行 |
|