天下一の成り上がり者

      豊臣秀吉とよとみひでよし
天文六年(1537年)2月6日〜慶長三年(1598年)8月18日
戦国時代は下克上の時代といえた。
力のないものは主君だろうが例え親兄弟だろうと殺し合いが起こった。
完全な実力がものをいう。実力のないものには死が待っていた。
その中で至上類を見ない出世を遂げた秀吉。
農民の出でありながら武士となり城主となり最後は日本のトップになった。
0歳
天文六年(1537年)
2月6日
尾張国中村で百姓の 父・弥右衛門、 母・なかの 子として生まれる。
遺体の調査の結果O型だったらしい。
太閤記では秀吉の生誕日を天文五年1月1日、幼名を日吉丸となっているが怪しいものである。
他にも生まれたときから歯が生えていたというのや頬に5つのあざがあるなど。
秀吉の前半生は不明な部分が多く逸話が多い。
ここでは木下性を名乗るまでその逸話を中心に話を進める。
22歳
永禄元年(1558年)
織田信長に小人として仕える。
その頃には木下籐吉郎と名乗る。
小人頭、足軽、足軽大将へと出世。
皆からその明るさ、風貌、(一説には申年生まれ)から猿の愛称で親しまれ、
自身も猿之助と自称したこともあったという。
24歳
永禄三年(1560年)
5月19日
桶狭間の戦いで初陣(?)。
ねねと結婚。
31歳
永禄十年(1567年)
信長の稲葉山城の戦いに参戦。
ここで後に一夜城と呼ばれる短期間で墨俣城を築き上げ、その功績により墨俣城主となる。
32歳
永禄十一年(1568年)
信長より朝比奈三郎義秀にあやかって義秀の名を勧められる。
義秀を逆さにし、将軍・足利義昭にはばかって義を吉に変え木下籐吉郎秀吉となる。
37歳
天正元年(1573年)
浅井攻めの功により浅井旧領と小谷城を信長から与えられ、城主へと大出世。
38歳
天正二年(1574年)
信長の重臣である 柴田勝家丹羽長秀から名を貰い 羽柴籐吉郎秀吉を名乗る。
41歳
天正三年(1575年)
5月21日
長篠の戦いに参戦。
46歳
天正十年(1582年)
6月3日
主君・信長が 本能寺の変で攻められたことを知る。
同6月6日 毛利と講和。急ぎ京へ向かう。
同6月13日 山崎の戦い明智光秀を討つ。
この事件が秀吉を織田家臣の一人からトップへと躍り出るきっかけとなった。
同6月27日 信長の後継者を決めりため清洲会議に出席。
柴田勝家丹羽長秀池田恒興とともに 審議した。
秀吉は信長の長男・ 織田信忠の遺児・ 三法師を推挙し、 勝家は三男・織田信孝を 推した。
秀吉は二男・織田信雄が 北畠氏、三男・信孝が神戸氏に養子に出されている上、
勝家の三男を推挙することに「二男を差し置いて三男が家督を継ぐのはそもそも問題がある」と反対します。
丹羽長秀、池田恒興も秀吉の意見に賛同し、
結果的に謀反人・光秀を討った秀吉の意見が通ることになるが勝家との間に大きな亀裂を残すことになる。
47歳
天正十一年(1583年)
賤ヶ岳の戦いで 信長の重臣・柴田勝家と争う。
48歳
天正十二年(1584年)
小牧・長久手の戦い
49歳
天正十三年(1585年)
藤原氏以外が関白になった例がないため、藤原五摂家の筆頭・近衛家の猶子となり藤原秀吉となり従一位関白となる。
50歳
天正十四年(1586年)
太政大臣となり後陽成天皇より豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉となる。
52歳
天正十六年(1588年)
刀狩令を出し、農民から刀剣・銃器などの武器を没収した。
一揆を抑制し、年貢を確実に納めさせるのが目的であった。
54歳
天正十八年(1590年)
奥州を平定し、天下統一。
55歳
天正十九年(1591年)
関白を養子・ 豊臣秀次に譲り 太閤と称す。
身分統制令を発布し、武士・農民の転業の禁止をした。
63歳
慶長三年(1598年)
8月18日
同10日に意識混濁状態が続き、18日に伏見城で死亡。

★猿ではなく禿げ鼠?

豊臣秀吉家系図
弥右衛門 なか 兄弟 男子2名・女子2名
正室 ねね 側室 淀殿・ 三の丸殿・姫路殿
加賀殿・松の丸殿・三条局
など21名
実子 男子3名
養子 男子7名・女子多数
|- 鶴松
|- とも |- 豊臣秀勝
木下弥右衛門 -|- 豊臣秀吉 -|- 豊臣秀頼
|- 豊臣秀長 |- 豊臣秀次
|- 朝日姫 |- 羽柴秀勝
|- 小早川秀秋
|- 於次丸秀勝
|- 宇喜多秀家
|- 結城秀康
|- 八条宮智仁親王


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