ア行 |
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カ行 |
名:片倉 小十郎
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生没:1557年?月?日〜1615年12月4日
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出身:出羽米沢
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名称:片倉小十郎景綱
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仙台市博物館蔵
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小十郎は通称で、代々片倉家の者が名乗った。その初代小十郎が景綱。
伊達家において智の片倉景綱と称えられた才色兼備の武将。
伊達政宗在るところに、
小十郎の姿ありと称される政宗の側近中の側近。
もとは出羽米沢の成島八幡宮の神官・片倉景長の次男だったが
遠藤基信の推挙により
伊達輝宗の小姓となり、
政宗の傅役を務める。
その後、政宗が家督を継ぎ、奥州を席捲していくが
政宗が豊臣秀吉からの
小田原参陣に遅れるという事件がおこる。
日本をほぼ掌握していた秀吉に敵対するようなこの行為に伊達家は絶体絶命の事態となる。
もはやと伊達成実らが徹底抗戦を
訴えるが景綱は沈黙をしたまま。
気になった政宗が夜分に景綱を訪ね意見をただすと、
「蠅というものはいくら追い払っても群がってくるものだ」というではないか。
秀吉の一隊を撃退したとしても多勢の敵に抗うことはできないということを知った政宗は
すぐに秀吉に謁見。結果的に許され、彼の助言が伊達家の命運を保ったのだった。
また、
関ヶ原の戦いで
上杉景勝と争っていた
最上義光からの援軍要請に対しても
両軍が疲れきったときに叩けば最上領を手に入れれると進言。
最上家には当時、政宗の生母・
義姫がいたわけだから
その作戦は却下されたものの政宗を驚かしたという。
晩年、中風を患い、白石城で死去する。冷静な状況把握と的確な判断をだせる才人であった。
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サ行 |
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タ行 |
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名:伊達 成実
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生没:1568年?月?日〜1646年7月16日
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出身:出羽
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名称:-----
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仙台市博物館蔵
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伊達実元と
伊達晴宗の娘の子。
伊達家随一の猛将と称され、武の伊達成実と称えられた猛将。
幼少より
伊達政宗に仕え
多くの武功を残す。
人取橋の戦いでその功により二本松城を得、郡山の戦いでは
片倉景綱とともに
わずか600の兵で4000の佐竹・芦名連合軍と戦い、圧勝している。
1590年には
豊臣秀吉の命により
名生城で奥州の監視役をしていた
蒲生氏郷の
伊達家への疑念を解くために自ら人質となる。
氏郷はその男気に惚れ疑惑を解かせることになった。
しかし朝鮮出兵後、恩賞の不満から突然高野山に籠る。
その後、行方知らずとなると政宗は
上杉景勝と
手を結ばれるのを危惧し、
屋代政景に命じ、
成実の妻子ともども自害させた。
しかし、成実は景勝からの五万石の申し出を断っており政宗はこの事を生涯後悔していたという。
関ヶ原の戦い前哨戦として
政宗が景勝を攻めた時のこと。
支城の白石城主・甘粕備後の弟である
登坂式部が奮戦し、
伊達軍が崩れかかったとき、
突然、成実が現れ単身敵軍に突撃し形勢逆転させ、伊達家に戻ったのだった。
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名:伊達 種宗
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生没:1488年?月?日〜1565年?月?日
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出身:出羽
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名称:-----
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伊達家14代当主。
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名:伊達 輝宗
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生没:1544年?月?日〜1585年11月29日
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出身:出羽
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伊達家16代当主。
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名:伊達 晴宗
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生没:1519年?月?日〜1578年1月12日
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出身:出羽
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伊達家15代当主。
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名:伊達 政宗
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独眼龍
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生没:1567年9月15日〜1636年6月27日
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出身:出羽米沢
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名称:梵天丸
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仙台市博物館蔵
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伊達輝宗の嫡男で
伊達家17代当主。
5歳の秋に天然痘により右目の眼球が飛び出、容姿が不気味になる。
それにより
義姫に疎まれ、
彼もまた内気な少年となっていた。
鬱憤が溜まりに溜まった少年はある日、この右目を抉り取れと泣き叫んだ。
家臣団がうろたえる中、
片倉小十郎が短刀で抉り出す。
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ナ行 |
ハ行 |
マ行 |
ヤ行 |
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名:義姫
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奥羽の鬼姫
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生没:1548年?月?日〜1623年8月13日
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出身:-----
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名称:保春院
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最上義光の妹。
伊達輝宗の正室で
伊達政宗の生母。
気性が荒く勝気な性格であった。
政宗が病気により醜い顔になると弟の小次郎を溺愛するようになる。
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ラ行 |
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ワ行 |