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| 天文十一年(1543年)12月26日〜元和二年(1616年)4月17日 | 
		 
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		天下という餅を、信長がつき、秀吉がこね、家康が食べる。
		 漁夫の利を獲ったかのような家康には幾多の困難があった。 人質生活から始まり、絶えず辛酸を舐めさせられた家康。 期を見、それまで耐え続ける彼の苦労は想像を絶するものだったろう。  | 
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		0歳
		 天文六年(1537年) 2月6日  | 
	幼名は竹千代。 | 
		 
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		75歳
		 元和二年(1616年) 4月17日  | 
	
		同年1月21日、家康は鷹狩に出かけ同行していた京都の豪商・茶屋四郎次郎清次から
		 鯛の天ぷらを料理させ食べた。 その夜、激しい腹痛を伴う食中毒症状を起こした。 侍医の治療で一時回復し駿府城へ戻り治療を続ける。 薬好きの家康が侍医の薬を飲まず、自分で作った薬ばかり飲むので 息子・徳川秀忠が 医者に命じてやめさせようとすると、 家康は怒って医者を田舎に飛ばしてしまったという。 4月16日に危篤状態に陥り、翌17日に駿府城で息を引き取る。 一説には以前から患っていた胃癌が死因というものもある。  | 
	
		 
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| 徳川家康家系図 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 父 | 松平広忠 | 母 | 兄弟 | 男子5名・女子4名 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 正室 | 
	
	築山殿 朝日姫  | 
側室 | 
	
		西郡局・お万の方・西郷局 茶阿の方・お亀の方・蔭山殿 お八の方・阿茶局・お竹の方 お六の方・お牟須の方 お都摩の方・お奈津の方 お梅の方・お仙の方 胡茶局・大橋局など  | 
実子 | 男子16名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 養子 | なし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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