信長大躍進のきっかけとなった奇襲戦

桶狭間おけはざまの戦い
永禄3年(1560年)5月19日

織田信長軍 VS 今川義元軍
約3000人 2万5000人
織田信長軍
総大将 織田信長 27歳 約3000人
佐久間盛重 ?歳
織田信蕃 ?歳
佐久間信盛 42歳
水野帯刀 ?歳
梶原平左衛門 ?歳
飯尾定宗 ?歳
林通勝 ?歳
柴田勝家 38歳
森可成 37歳
金森長近 36歳
河尻鎮吉 ?歳
岩室重休 ?歳
長谷川好秀 ?歳
今川義元軍
総大将 今川義元 42歳 2万5000人
朝比奈泰能 63歳
岡部元信 ?歳
葛山信貞 ?歳
鵜殿長照 ?歳
松平元康 19歳
平岩親吉 18歳
三浦備前守 ?歳
庵原元景 ?歳
堀越義久 ?歳
浅井政敏 ?歳
井伊直盛 54歳
飯尾乗連 ?歳

    前置き
駿河と遠江を支配する大大名の今川義元が領地拡大(もしくは上洛)のため、尾張の織田信長と争った戦。
織田氏と今川氏は長年小競り合いを続けた関係で、隣国三河を巡って攻防が続いていた。
    桶狭間の運命の時
織田軍の道のり
    5月10日
上洛を大義名分に今川軍先発隊長井伊直盛が出陣。
    5月12日
今川義元率いる今川本隊二万五千が尾張に出陣。
義元は総髪にお歯黒をつけての出陣。
およそ戦に望む格好ではないのだから信長は敵として見ていなかった。
    〜5月18日
今川本隊が三河岡崎城を経由して沓掛城に入城。
信長のもとに義元が桶狭間山近くまで侵入し、
翌19日に丸根と鷲津砦を攻撃するとの知らせが届く。
しかし、信長はこの知らせにもまだ動く気配がない。
敵方はもとより家臣団もこの後の信長の行動は誰も想像だにしなかったのだった。
    5月19日
午前2時、突然信長が動き出す。
「具足を持て!螺を鳴らせ!」
出陣の命令を出すと立ったまま湯漬けを食べ、
幸若の舞曲「敦盛」を謡い、舞った。
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり
                   一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか」
訳:人の一生は五十年。天界のものと比べれば夢のように儚い一瞬だ。
とするこの一節を信長は好んでいたとされる。

すぐさま信長出陣。
しかし突然の出陣に従ったものは岩室重休、佐脇籐八、長谷川好秀、山口弘寄、加藤弥三郎の5騎だけだった。
善照寺砦につく頃には軍勢は三千に増えていた。だが、すでに丸根砦と鷲津砦が陥落。
この時、 梁田政綱が 義元が桶狭間東北部の田楽狭間で休憩中であることを伝える。
信長は善照寺砦に残ると見せかけ千の兵を置き、ひそかに義元に迫る。
田楽桶狭間近くで突然の暴風雨、視界不良となると信長は攻撃の命令をだした。
    東海一の弓取り・今川義元の討ち死
兵士と酒宴をしていた義元は当然突然の攻撃を予期しておらず味方の裏切りかとうろたえたという。
逃げ惑う兵の中、義元を見つけ出し 服部子平太が一番槍をつけた。
義元は子平太の膝を切りつけたが、 毛利新介と 取っ組み合いとなり、
人差し指を食いちぎったりと抵抗したが首級をあげられてしまう。
主君を失った今川軍は総崩れとなりそれぞれ逃げ帰っていった。
第一の勲功者を梁田政綱とし、ここで壮絶な奇襲戦により、桶狭間の戦いが終わる。
    その後
その後今川家は衰えていき、支配下にあった松平元康(のちの徳川家康)は独立し信長は手を結ぶこととなる。
こうして東の脅威がなくなった信長は以後西への攻めに専念でき、勢力を拡大させていった。


日本史合戦トップへ
     
トップへ