ア行 |
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カ行 |
サ行 |
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名:斉藤 道三
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美濃の蝮(マムシ)・ 蝮の道三
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生没:1494年(?)?月?日〜1556年5月28日
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出身:不明
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名称:長井新九郎規秀・斉藤利政・斉藤秀龍・左近太夫
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常在寺蔵
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戦国の三梟雄の一人。
長井新左衛門の子。
今までの定説では父・新左衛門の業績から全て彼一人で行ってきたものとされていた。
能弁を生かし、
長井長弘の家臣、
長弘の主君・土岐盛頼の弟・
土岐頼芸の側近となり、
頼芸をそそのかし、土岐盛頼を追放させ守護職につかせ、
さらには長井長弘を謀殺し、長井姓・稲葉城を得た。
斉藤家の名跡を継ぎ、斉藤利政となり、49歳の時、主君・土岐頼芸を追放し美濃守護代となる。
追放された土岐兄弟の後押しをした織田軍との争いの和睦のため
娘・濃姫と
織田信長の婚約を成立させた。
当時、うつけと言われていた信長が道三の下へやってきた時、
娘婿を隠れて見ていたが、信長の長槍隊や鉄砲隊を見て見直し、
「わが子らは、あのうつけの家来になるだろう」と語ったという。
その後は内政に力を注ぎ家督を嫡男・
斉藤義龍に譲る。
しかし道三は義龍を嫌い、また敵の子かもしれない義龍に変わり
次男・斉藤龍重か
三男・斉藤龍定を立てようとするが
義龍は弟二人を殺し、怒った道三は兵を挙げるも家中の多くを味方につけられ、長良川で討たれる。
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名:斉藤 義龍
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生没:1527年7月8日〜1561年6月23日
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出身:不明
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名称:-----
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常在寺蔵
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斉藤道三の嫡男。
身長六尺五寸(195cm)あり大柄で長身。
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タ行 |
名:土岐 盛頼
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生没:不明
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出身:美濃
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名称:土岐頼純(?)
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美濃の守護・土岐政房の嫡男。
父の死後、後を継ぐが
弟・土岐頼芸の謀反により
越前に追放される。
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名:土岐 頼芸
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生没:1502年?月?日〜1582年12月28日
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出身:美濃
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名称:-----
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美濃の守護・土岐政房の子で
土岐盛頼の弟。
かねてより兄・盛頼に不満を抱いていたが
側近の斉藤道三に勧められ
盛頼の不意をつき、居城川手城を落とし、守護代・斉藤利明とともに追放し、美濃の守護となる。
しかしその後、道三の存在が疎ましくなった頼芸は兄・盛頼の支援の下、道三を攻めようとするが、
事前に道三にバレ、居城・大桑城を急襲され、尾張に追放されてしまう。
戦略面では無能であったが文化人として有能で鷹の絵ばかり描いていたという。
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ナ行 |
名:長井 新左衛門
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生没:不明
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出身:不明
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名称:法蓮坊(?)・山崎屋庄五郎(?)・西村勘九郎正利(?)・西村新左衛門
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斉藤道三の父とされる人物。
山城の元北面の武士・松浪基宗の子として生まれ、11歳の時、京都の妙覚寺へと入る。
のちに還俗して、油商人の娘婿に入り諸国を行商する油商人となる。
その時再会した妙覚寺時代の弟弟子・
日運上人とツテで
長井長弘に仕える。
なお、今までの定説ではこれら全てのことは息子・道三の業績だとしていた。
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名:日運上人
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生没:不明
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出身:不明
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名称:-----
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美濃守護土岐家の重臣・長井家の一族。
妙覚寺の僧をしていた
斉藤道三の弟弟子となり、
美濃常在寺の住職をしていた時、油商人であった道三と出会い
長井長弘を紹介する。
しかしこれらは道三本人ではなく、父とされる
長井新左衛門であるようだ。
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ハ行 |
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マ行 |
名:深芳野
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生没:不明
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出身:不明
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名称:-----
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土岐頼芸の妾であったが、
頼芸が斉藤道三を気に入り
道三の妾となった。
その後すぐ斉藤義龍を生んだため
義龍は道三が実父でないかもしれないという
疑心暗鬼に駆られ謀反の原因となったといわれる。
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ヤ行 |
ラ行 |
ワ行 |