扇谷上杉方の武将・軍師等の人物紹介

日本史武将伝〜扇谷上杉家編〜


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名:一般名 別名:あだ名 生没:生誕〜死没 出身:出身地
名称:名称・俗称・通称
人物の説明


ア行
名:上杉うえすぎ 定正さだまさ ----- 生没:1443年?月?日〜1494年11月2日 出身:-----
名称:-----
名:上杉うえすぎ 朝良ともよし ----- 生没:?〜1518年5月30日 出身:-----
名称:-----
名:太田おおた 道灌どうかん 五山無双の学者 生没:1432年?月?日〜1486年8月25日 出身:相獏
名称:鶴千代・太田資長
大慈寺蔵
大田資清の子で 扇谷上杉定正の重臣。
文学に長けた武将で知られる。9歳で鎌倉建長寺に預けられ11歳ですでに文章に通じていたという。
15歳の頃、知識をひけらかす子を戒めるため、
父・資清は「障子は真っ直ぐだから立つのであって曲がっていては立たない」と
言ったものの、道灌は「屏風は曲がっているから立つのであって真っ直ぐでは立ちません」と反論したという。
そして和歌にも富んでいた道灌が和歌好きになる山吹の里というエピソードがある。
もともと歌には興味がなかったが、ある雨の日、村の娘に蓑を借りようとすると山吹の花を渡されたという。
わけのわからない道灌は城に帰り、家臣にこのことを聞くと、
古歌の「七重八重 花は咲けども山吹の 蓑一つだになきぞ悲しき」のことで
蓑さえ貸せないほど苦しいと娘が言っているのだと知った。
道灌はそれ以来、無知を恥じて歌を覚えていったという。
足軽を使い、扇谷上杉氏を支えていったのだが道灌の力を恐れた 山内上杉顕定が定正を策に掛けると
定正は相模国糟屋の館に招きいれ、曽我兵庫に入浴中を襲わせ殺害してしまう。
この時道灌は「当方滅亡」と叫び殺されてしまった。
実際にその後、扇谷上杉家は衰えていき新勢力である北条家によって滅ぼされてしまう。
また江戸城、河越城、岩槻城を築城した人物としても有名である。
名:大森おおもり 氏頼うじより ----- 生没:?〜1494年9月25日 出身:-----
名称:-----
名:大森おおもり 藤頼ふじより ----- 生没:?〜1503年11月20日(?) 出身:-----
名称:-----
カ行
サ行
タ行
ナ行
ハ行
マ行
名:三浦みうら 時高ときたか ----- 生没:1416年?月?日〜1494年10月22日 出身:-----
名称:-----
名:三浦みうら 道寸どうすん ----- 生没:?〜1516年8月19日 出身:-----
名称:三浦義同
扇谷上杉朝良の 剛勇で知られた重臣で三浦家当主。
北条早雲に攻められ、 岡崎城、住吉城、新井城と逃げ込むが新井城を3年間包囲され、
食料も尽きたとき玉砕覚悟で突撃し、討ち死した。
彼は突撃前、辞世の句を読んでいる。
辞世の句:討つ者も 討たれる者も 土器(かはらけ)よ 砕けて後は もとの土くれ。
名:三浦みうら 義意よしおき ----- 生没:1496年?月?日〜1516年8月9日 出身:-----
名称:-----
三浦道寸の子。
父に従い北条早雲に攻められ、 一緒に自刃している。
ヤ行
ラ行
ワ行


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