戦国時代の口火を切った梟雄

      北条早雲ほうじょうそううん
永享四年(1432年)?〜永正十六年(1519年)8月15日
文化人として知られる早雲が野心を持ち始めたのはいつの頃からだろう。
人生五十年という時代に六十歳を過ぎてから武将として名乗りをあげ、
下克上の世となる戦国時代を作り上げた男。
彼は類稀なるその力を見せ、戦術・内政にも富んでいた。
のちに五代に渡る北条家の栄華を築き上げた老臣の生涯を見てみよう。
0歳
永享四年(1432年)?
室町幕府政所執事伊勢一族に生まれる。
出自には諸説あり若い頃は不確かであるが京都大徳寺で禅の修業をしていたとされる。
33歳
寛正五年(1464年)
将軍の弟・足利義視の 近仕として仕えてる。
伊勢新九郎と名乗っていた。
36歳
応仁元年(1467年)
応仁の乱が起こり、義視と共に伊勢へと逃げる。
妹・北川殿が 駿河守護・今川義忠と結婚。
38歳
応仁三年(1469年)
義視帰京し別れ、早雲は妹・北川殿を頼り、駿河守護・今川義忠の下で仕える。
客将として扱われ、給料も微々たる物であった。
早雲は苦労を共にした同士である
大道寺太郎・多目権平・荒木兵庫・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛ら六人と
「一人でも大名になったなら、残りの者はその家臣となって大名になったものを盛り立てよう」
と誓い合っている。
彼らはのちに北条家の忠臣となり一族に継ぐ家格の御由緒家として重用された。
45歳
文明八年(1476年)
今川義忠が遠江で討ち死。
義忠の遺児で北川殿との子で6歳の 龍王丸と、
義忠の従兄弟にあたる 小鹿範満で 跡継ぎ問題が起こる。
範満は龍王丸では若すぎると真っ向から反対。
そこを狙って扇谷 上杉定正や 堀越公方 足利政知が 兵を起こし圧力をかけてくる。
今川家存続の危機に陥ってきたのだった。
早雲は太田道灌と共に 扇谷・堀越公方らの兵を外交交渉で引かせ、
龍王丸が元服するまで範満が代行することにし和解させた。
48歳
文明十一年(1479年)
再び京都へ上洛する。
この頃は幕府に仕えていたのか、または大徳寺で修行していたとも言われている。
56歳
長享元年(1487年)
妹・北川殿から範満が家督を返そうとしないとの相談に範満の意思を探り、
その気がないとわかると手勢を従え、今川館へ急襲し範満を討ち取る。
龍王丸は元服し 今川氏親となり 恩賞として駿河駿東・ 興国寺城と富士下方十二郷を賜る。
59歳
永徳三年(1491年)
堀越公方足利政が死に、嫡子・ 茶々丸が 異母弟や家老を皆殺しにし、伊豆は内乱状態となる。
この頃より早雲は隣国・伊豆を虎視眈々と狙っていた。
62歳
明応二年(1494年)
★伊豆を手にし、一国一城の主となる★
伊豆の国人が関東に出陣している隙に今川氏親から借りた兵500と共に、
舟で伊豆に攻め入り、茶々丸の本拠・ 韮山城を一夜にして滅ぼす。
これには扇谷上杉定正の手引きもあったといわれている。
伊豆を手にし、早雲は内政を重点に行う。
1.各所に高札を立て、早雲に従う者には所領の安堵、歯向かう者は屋敷に火を放つと宣言
2.当時伊豆で風邪がはやっていたため部下に病人の看病をさせる
3.年貢を四公六民と減税
これらの政策は国内の安定と農民を味方につける大きな力となった。
また敵味方をはっきりと区別し、反抗した 関戸吉信と 城に籠もる1000人を皆殺しにしたという。
戦国時代の幕開けとなった早雲の大躍進はツキまでついてくる
扇谷上杉定正や 小田原城主の名将・ 大森氏頼三浦時高が 相次いで死亡したのである。
扇谷上杉家は弱体化し、早雲に絶好の好機が訪れた。
64歳
明応四年(1495年)
2月21日
★堅城小田原奪取★
早雲は小田原城を継いだ 大森藤頼と 交友を結び、たびたび小田原城を訪ね、動静を探っていた。
早雲は次なる標的として小田原を狙っていたのである。
そしてそれを実行に移すことにする。
箱根山中で鹿狩りの際、鹿が小田原城の裏山あたりに逃げ込んだので
追い戻すため勢子を入れさせてほしいと早雲は藤頼に手紙を送った。
了承を得ると、勢子に扮した兵を小田原に送り、まさかの奇襲であっけなく小田原城は落ちた。
この時、牛の角に松明をつけ暴走させる火牛の計を用いたとも言われている。
北条氏が堅城 小田原城を手に入れた瞬間であった。
73歳
永正元年(1504年)
今川氏親と共に 扇谷上杉朝良を 援護し、 山内上杉顕定 と争った武蔵立川原の戦いで大勝。
81歳
永正九年(1512年)
扇谷の重臣・ 三浦道寸の こもる相模・岡崎城を攻める。
道寸は 住吉城新井城へと逃げる。
82歳
永正十年(1513年)
三浦道寸・ 三浦義意父子が 新井城へ逃げ込む。
早雲は 玉縄城を築き糧道を塞ぎ、 新井城を包囲し兵糧攻めを決行。
85歳
永正十三年(1516年)
三浦親子は新井城に千駄矢倉という大きな岩穴に大量の米穀を入れていたが、
それも尽き、全軍が城からでて玉砕した。
新井城下の油壺湾は血で真っ赤に染まったといわれる。
87歳
永正十五年(1518年)
嫡男・北条氏綱に 家督を譲り隠居。
88歳
永正十六年(1519年)
8月15日
同年夏頃に三浦半島へ舟遊びに出かけ体調を崩し、8月15日、伊豆韮山城で天寿をまっとうした。
晩年も視力や聴力もよく、白髪ではあったが元気なおじいさんであった。
法名を早雲庵宗瑞。

勢力図 伊豆・駿河地図

★夢が正夢に かつて早雲はある夢を見た。
広い野原に立つ二本の杉の根を一匹の鼠が食い、みるみるうちに大きな虎になるというものだった。
二本の杉とは山内・扇谷の両上杉家を、
鼠は子年生まれの早雲のことを指していたということになる。

北条早雲家系図
不明 不明 兄弟 女子1名
正室 不明 側室 不明 実子 男子3名
養子 なし
伊勢一族? -|- 北条早雲 -|- 北条氏綱 -|- 北条氏康 -|- 北条氏政 -|- 北条氏直
|- 北川殿 |- 北条長綱


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